「法の支配」とは一人一人に寄り添うこと

UNDP邦人職員インタビュー: 稲垣健太 UNDP本部危機局 法の支配・セキュリティ・人権専門官

2023年5月24日
Photo: UNDP

日本で検事として働いた経験を活かし、現在、国連開発計画(UNDP)ニューヨーク本部 危機局・法の支配チームにて、法の支配・セキュリティ・人権専門官として従事する稲垣健太。UNDPが取り組むグローバルな課題を解決する上での法の支配や司法の役割とは?異色のキャリアを持つ稲垣健太に、法の支配の現状と今後のアプローチについてインタビューしました。


 

Q1. 検事の仕事を経て国連開発計画(UNDP)で働くことになったきっかけは何だったのでしょうか? 

直接的に国連の仕事に関心を持ったのは大学生の頃ですが、小学生の時から日本の戦争や平和の歴史に対して関心がありました。高校から大学にかけて、9.11やその後のアフガン・イラク戦争が起きたことで国際問題への関心をさらに深めていき、大学では国際政治学を学びました。しかし、大学卒業後すぐに国連を目指した訳ではなく、まずは私が生まれ育った日本の社会のために働きたいと思い、司法試験を受け、検事になりました。その後、日本各地の検察庁で様々な刑事事件の捜査や裁判を行いましたが、それぞれの事件に、地方と都市部の経済格差、子どもの貧困、ジェンダー不平等といった社会課題が鏡のように映し出されており、そういった問題について考えるようになりました。また、アメリカのロースクールに留学したことで、法律や司法の専門性と学生時代から抱いていた国際問題への関心を結びつけた仕事がしたいと思うようになり、色々と模索をしていた中で、UNDPで法の支配・司法分野に関する政策・プログラム実施支援等にたずさわることになりました。

2022年12月国連犯罪防止刑事司法委員会にて

Photo: UNDP / Kenta Inagaki

Q2. 法の支配チームはどのような活動をしているのでしょうか? 

UNDPは、世界の170の国や地域で活動しており、各事務所で法の支配や人権・司法・セキュリティに関するプロジェクトを実施しています。本部にはUNDP各国のプロジェクトをサポートするための「持続可能な平和と開発のための法の支配・人権・司法及びセキュリティの強化に関するグローバル・プログラム」があり、そのプログラムの管理や実施をしているのが私の所属する危機局の法の支配チームです。

このプログラムは主に3つの柱から成り立っています。1つ目は、プログラムサポートです。これは、各国事務所で行うプロジェクトに対して、技術、資金、人などの様々な面でのサポートを提供するものです。2つ目は、政策(ポリシー)です。各国事務所が法の支配に関するプロジェクトを行う上で指針となるガイダンスや、リサーチの結果に関するレポートなどを作成します。そして、3つ目がパートナーシップです。国連内外の機関などとの連携を行うことにより、各国事務所が様々なプロジェクトを現場で運営する上で、効果や効率性を高めることができます。現場でのパートナーシップを促進するためにも、私たちチームも他の機関との本部レベルでのパートナーシップの強化を行います。

ソマリア、7人の子の母親である女性が、UNDPが促進するコミュニティでの対話を通じて、土地の権利を回復

Photo: UNDP

Q3. 稲垣さんは検事出身ですが、他のチームメイトも同じく法曹関係の出身なのでしょうか?また、周りにはどのような経歴の職員がいますか? 

私が所属するチームでは、法律家の出身とそうでない人との割合は半々くらいだと思います。開発における法の支配の課題は、とても複雑で様々な問題が絡み合っています。そのため、法律の専門家だけで解決策を導き出すことはできません。例えば、紛争の原因と法の支配の脆弱性は密接に結びついますし、紛争からの平和構築という点でも、司法機関や警察などのセキュリティの機関をサポートすることは重要になります。他にも、ジェンダー、デジタル、環境など幅広い分野が関係しているため、チームの内外でそういった分野の知識や経験を持つ人々が連携をして、日々知恵を出し合っています。

ニューヨーク、オフィスにて法の支配チームの同僚と 

Photo: UNDP / Kenta Inagaki

Q4. 現在、法の支配チームにおいて、どのような分野を担当されていますか。

私は、現在、主に司法へのアクセス(access to justice)と呼ばれる分野を担当しています。 「司法へのアクセス」というのは、簡単に言うと、お金や仕事や家族関係などにまつわる法律上の問題を抱えている人々が、司法制度の利用などを通じ、それらを公平・公正に解決できることを言います。 伝統的に、司法分野の国際協力は、相手国政府の国家機関を対象に法律の起草や法制度の整備等を支援する、制度的なアプローチを中心としてきました。しかし、法や制度の整備のみでは、金銭・交通手段・知識の有無など様々な事情で公式な制度にアクセスできない人々に、司法サービスを届けることはできません。そのため、UNDPでは、例えば、移動法廷や人々への司法制度に関する情報の普及など、早くから司法へのアクセスを重視した支援を途上国で実施してきました。その結果、国際的な認識も高まり、2015年に国連で採択された持続可能な開発目標(SDGs)に「すべての人の司法への平等なアクセス」(目標16.3)が盛り込まれるに至りました。 ちなみに、途上国だけでなく、日本でも司法へのアクセスは今も重要な課題です。日本でも長い間、弁護士の数が少なく、地方での「司法過疎」などが大きな問題となってきました。2000年代から始まった司法制度改革により、弁護士の数が増えて法律扶助の制度も整備され、徐々に司法へのアクセスが改善されてきました。

Q5. SDGsの目標16.3の達成に向けて現状はどのような段階なのでしょうか?

実は、最近まで世界的に司法へのアクセスに対する需要がどの程度満たされているかについての数値的なデータはほとんどありませんでした。しかし、SDGsとして盛り込まれたことでデータに関する研究も進展しました。そして、2019年に発表された報告書「Justice for All (邦題;すべての人に司法を)」の中で初めて、世界にはまだ51億人以上もの人々が「Justice(ジャスティス)」に対するニーズ、つまり、司法制度などを通じた公正公平な解決を必要とする問題を抱えている状況にあるということが明らかになりました 。司法ニーズを抱えている人々の数とそれを満たすためのリソースの差をグローバル・ジャスティス・ギャップと呼んでいます。コロナ禍は世界中で社会経済的な危機を生じさせた一方で司法サービスの提供に多くの障壁もたらしましたので、このギャップは現在さらに広がっていると思われます。

「Justice for All (すべての人に司法を)」報告書

Image: The Task Force on Justice

Q6. 現在、「司法へのアクセス」の分野において稲垣さんが特に注視している課題や動向などはありますか?

私が特に注目しているのは、人々中心の(people-centred)アプローチと民事司法(civil justice) です。 51億人という数値が示すとおり、SDGsの目標16.3の達成にはまだほど遠い状況にあります。多くの開発パートナーの間で、ジャスティス・ギャップの縮小を加速していくためには、これまでの繰り返しではなく、人々が求めている司法ニーズを制度やサービスの中心に置く「人々中心のアプローチ」を採ることが重要であると考えています。これは、個人が抱える問題を解決又は予防していくという司法の目的から導いた「ゴールからの発想」であるとも言えます。そして、51億人の大部分の人が抱えているのは、借金や雇用、家族、教育・保健・社会保障などへのアクセスといった民事的なニーズです。途上国では、人々が日常生活の中で抱えるこういった問題が解決できないままに放置されていることが、ひいては貧困や不平等、差別、暴力や紛争の原因となっているのです。しかし、国連では、刑事分野に比べ、民事分野に十分に焦点を当てた司法へのアクセスに関する政策や実践の蓄積がまだまだ多くありません。そこで、UNDPは改めて持続可能な開発を実現する上での民事司法の役割に注目し、人々中心のアプローチの実践を進めています。

Q7. 司法へのアクセスのさらなる向上のために「Justice Futures CoLab」が2022年に本格的に始動したと伺いました。どういったプロジェクトなのでしょうか?また、稲垣さんはどのように関わっていくのでしょうか?

Justice Futures CoLabは2022年に法の支配チームが立ち上げたJustice司法分野の政策・実践のプラットフォームです。先ほど述べたとおり、世界では51億人もの人々が司法にアクセスできない状況にある上、各地で長期化する紛争、コロナ禍、気候変動や環境破壊の深刻化、デジタル技術の急速な普及・進展などの影響により、不公正・不正義(injustice)がまん延しています。「Justice(公平さ・公正さ)の危機」ともいえる、この複雑で困難な時代においては、今までと同じ方法ではなく、新たな発想によるイノベーティブ(革新的)なアプローチが求められています。UNDP内外の専門家・パートナーが協働して、実験室で実験を繰り返すように新たな手法を試し、そこから学んでいくためにCoLabが立ち上げられました。協働という意味のCollaboration(コラボレーション)と実験室という意味のLabo(ラボ)をかけ合わせたネーミングです。

Justice Futures CoLabチームとの集合写真

Photo: UNDP / Kenta Inagaki

イノベーションというのは、何も新しいデジタル技術を導入するということだけではなく、既存の仕組みを少し工夫するだけでも十分に可能です。例えば、アルゼンチンでは、司法へのアクセスプロジェクトの一環として、“Hospital of Rights”と呼ばれる施設がUNDPの支援によって設立されました。ここでは、国や地方自治体、大学、裁判所や公設弁護人事務所など17の機関が連携し、人々が日常生活の中で抱える問題を一か所で解決できるようにしています。民事事件では、当事者が抱えるニーズは多くの場合、法的なものだけではなく、保健・医療・社会保障・金融関係などの問題と絡み合っており、そもそも当事者が自分の問題に司法的に解決できる側面があることに気が付いていない場合も少なくありません。そのため、司法と他のセクターの壁を取り払い、法律家と他の分野の専門家との協働を促進していくことが重要です。アルゼンチンのHospital of Rightsにおいても、当事者からの最初の聞き取りを弁護士、ソーシャルワーカー、臨床心理士が行うなど、様々な観点から当事者が抱える問題を分析し、異なる分野の専門家や機関が連携して解決を促進するような取り組みが行われています。実は、日本にも同様の課題があり、近年、全国各地で、高齢者や障がい者などが抱えるニーズに司法専門家が福祉関係者などと連携してアプローチする「司法ソーシャルワーク」と呼ばれる取組も進んでいます。

多くの途上国では、そもそも裁判官や弁護士の数が少ないなど、人々のニーズに応えるリソースが圧倒的に不足しています。そのため、解決すべき人々のニーズに焦点を当て、関係機関が連携して解決に当たるという、人々中心のアプローチこそが有効であると考えています。Justice Futures CoLabを通じて、こういった取組をより促進していきたいと考えています。

Hospital of Rights

Photo: UNDP Argentina

Hospital of Rights

Photo: UNDP Argentina

Q8. 国際協力、開発という分野に興味がある方々に向けてのメッセージをお願いいたします。 

Justiceというのは法律や司法制度のことだけではなく、その社会で正しいことが行われているという人々の感覚でもあります。普通の人々がJusticeを感じられるために必要なことは何か。非常に単純ですが、私は、自分が困ったときに他の誰かがそばにいて話を聞いてくれることではないかと考えています。苦しい状況にある一人一人の声を聞くことこそが、司法へのアクセスの本質だと思います。私が日本で検事として大切にしてきたのも、事件の被害者や被疑者、その家族などの話に真摯に耳を傾けることでした。こういった一人一人に寄り添う形で司法がきちんと機能することが、「この社会では正しいことが行われている」という人々の信頼に繋がるのです。裁判官すら弱者の声に耳を傾けず、人々が本当に求めている正義や人権といった基本的な価値を守ってくれない国や社会では、Justiceに対する信頼は地に落ちてしまいます。そして、それが暴力的過激主義や治安の悪化、社会の不安定化につながります。 

現状として、法の支配は世界的に後退しています。近年、コロナ禍に始まり、ミャンマーやアフガニスタンでの事態、ロシアによるウクライナ侵攻など、法の支配に対する人々の信頼が損なわれる事態が続いています。そんな逆風の中でも私たちは歩みを止めることはできせん。法の支配の分野では成果が出るまで時間がかかる上、その過程も非常に困難ですが、その価値を諦めてはいけません。逆風の中でも誰かが守っていかなければならないし、何よりも国連は苦しい状況にある多くの人々にとって最後の希望です。その中で、法の支配や司法、人権といったとても重要な価値を守るための仕事をしていることをとても誇りに思っています。 

今後、国際協力を志す方々には、できるだけ多くの様々な経験をされることをお勧めしたいと思います。UNDPが取り組む課題はどれも大きく複雑で、難しい仕事ですが、検事の時代を含め、これまでの様々な経験が今のモチベーションを支えてくれていると思います。

稲垣健太(左)と聞き手(真ん中・右)谷口晴香、郭拓人 UNDP駐日代表事務所インターン

稲垣健太 UNDP本部危機局 法の支配・セキュリティ・人権専門官 
東京都出身。大学で国際政治学を学んだ後、司法修習を経て検事に任官。東京、那覇、神戸、青森の検察庁などで多種多様な刑事事件の捜査・裁判に従事。法務省において、国連の会議やユースフォーラム、途上国への法整備支援に関する政策立案等を担当。2018年よりUNDPニューヨーク本部危機局において、法の支配・司法分野におけるプログラムに関する政策・実施支援等を担当。人々中心のアプローチに立脚した法の支配・人権の強化に取り組んでいる。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。ボストン大学ロースクール修士。